ヒカルイマイ
父:シプリアニ 母:セイシュン 母の父:ヴィーノーピュロー
1968年生/牡/IK評価:3B級
主な勝ち鞍:ダービー、皐月賞
《競走成績》
3~4歳時に15戦7勝。主な勝ち鞍はダービー(芝2,400m)、皐月賞(芝2,000m)、きさらぎ賞(芝1,800m)。
父シプリアニは、1958年イタリア産。競走はイギリス、アイルランドで3~5歳時17戦して4勝。英ダービーは、Sideunの5着、愛ダービーがYour Hightnessの6着という成績が示す通り、いわゆる上級レベルの馬ではなかった。産駒には、このヒカルイマイのほか、トウメイ(天皇賞、有馬記念)、アチーブスター(桜花賞、ビクトリアC=現在のエリザベス女王杯に相当)、シンモエダケ(シンザン記念、阪神4歳牝馬特別)、公営のトドロキムサシ(東京大賞典)、ファインポート(東京大賞典)など、活躍馬を輩出している。
母セイシュンは、ミラの血を引くサラ系で、地方競馬で走り、とくにこれといった勝ち鞍はなく、また産駒も、このヒカルイマイまでは、1頭の勝ち上がり馬も出していなかった。また、BMSのヴィーノピュローはアルゼンチン産で、自身はアルゼンチンの2,000ギニーを制し、10勝の勝ち鞍を残した。種牡馬としては、京都大障害を勝ったコーシュン以外、中央ではこれといった産駒を残していない。そういう父と母の間に生まれたのが、ヒカルイマイである。
ヒカルイマイの血統構成では、まず5代以内にできたクロスとしては、Man o’ Warの5×4と、次いでThe Tetrarchの6×4がある。これらはともに中間断絶。系列ぐるみのクロスは、Polymelusの7×5で、影響度としてはこの血がかなり強いと思われるが、母内に存在するBona Vista、Persimmon、Rock Sandも、ほぼ同等の強さと考えて間違いないだろう。
次にこれらの血の結合状態を見ると、PolymelusとThe TetrarchはBona Vista-Bend Orを共有。PolymelusとMan o’Warも、Bend Or、Hampton、Hermitを共有。さらに、The TetrarchとMan o’Warは、Bend OrとGalliardを共有という具合に、Man o’War、The Tetrarch、Polymelusの3者は、Bend Orを中心にして、互いに強固な結合を果たしていることがわかる。
また、Bend Orのほかにも、St.Simon-Galopin、あるいはHermit、Isonomyなども、8~9代の位置で土台構造または結合の要として十分な機能を果たしている。そして、母セイシュンの中に1つだけ存在するCarbineも、ヒカルイマイの血統構成の中では父シプリアニを動かす上で、意外な役割を果たしている。
それというのも、シプリアニ自身の中では、Speamintの血がBlandfordに次いでスタミナの役割を果たし、その父であるCarbineが、要所に6つ配されている。したがって、BlandfordやSpeamintがクロスになれなかった場合には、隠れたスタミナのアシストを受けるためにも、最低限Carbineを確保できたことは、弱点を派生させずにすむという意味も含めて、この配合の隠れたポイントになる。
こうして見ると、このCarbineの血が母方に1つ存在していたことは、ヒカルイマイの皐月賞、ダービー制覇の陰の立役者といえるかもしれない。この血の結合は、9代目に存在するStockwellが、Bend Orの父Doncasterの父にあたり、9代目まででは結合を確認できないが、全体のBend Orの数や位置からして、まずはスタミナ勢力として、10代目の位置でStockwellによって主導と結合していると考えて間違いないだろう。
さて、ヒカルイマイの血統構成を考察するうえでは、分析表上の最下部の空白部分に触れないわけにはいかない。牝系5代のミラは、明治32年に、競走馬としてオーストラリアから輸入された30頭のうちの1頭で、横浜にあった根岸競馬場でのレース成績が残っている。それによれば、13戦10勝(2着3回)というすばらしい実績を残しており、新冠御料牧場に繁殖として買い上げられた。
当時はまだ、まさに日本の競馬の創世記でもあり、同時に日露戦争を境とした軍馬の改良目的といった時代的背景から、丈夫でタフなことが理想とされ、そのための体型や能力が重視された。その意味では、一部を除いて、「血統」という視点そのものはさほど重要視されていなかったといえる。まして、日本で血統登録が正式に始められたのが大正14年(1925年)ということからしても、それ以前の競馬では「血統不詳」ということも、それほどハンデにはならなかったのだろう。
この大正14年の血統登録制度によって、サラブレッドと証明された馬が甲種、それ以外を乙種という具合に、2種類に登録が分けられ、そのためにミラは乙種サラ系と分類された。このことが、ミラがサラ系とされたことのそもそもの始まりなのでる。しかし、ミラの競走成績が示す能力や、当時の時代背景などを考えると、ミラは、限りなくサラブレッドに近い馬で、それがサラ系とされたのは、単に登録の際に記録上の不明点があったためだと考えるべきではないだろうか。
ご存知の通り、五十嵐理論(IK理論)は、世界の名馬の血統構成を調べ上げ、クロス馬に着目して、走る馬に共通する血統内の形態を見いだして構築された理論である。私たちは、その後を受けて、競走馬の血統構成の検証を続けてきたが、その結果、やはりこの理論の正当性を裏づけるだけのデータを、十分に蓄積してきた。それに基づき、ミラの血統に関して、8項目中の②の位置・配置と④の弱点・欠陥を基準にして考察してみよう。
もしも、ミラの中にサラブレッドの血がまったく含まれていなかったとしたら、当然その部分は欠陥となって、それを含む産駒は一定の競走能力を備えることはできないということになる。しかし、ミラは、その産駒の実績から、ヒカルイマイの血統内でいえば4代目の第三ミラ、3代目の竜玉と、そのファミリーを伸ばしている。ということは、多少の欠陥は派生したとしても、サラブレッドの血が含まれていなければ、そうした実績は残せなかったはずである。
さらに、ミラの血が最大の威力を示して事例として、ワカタカ(父トウルヌソル、1929年生)の存在がある。この馬は、母内3代目に第二ミラの血が配されているので、分析表上でいえば、8分の1が血統不詳ということになる。つまり、I理論からいえば、父トウルヌソルに呼応できる血が含まれていなければ、この部分に大穴があくことになる。しかし、ワカタカは、第1回の日本ダービー(昭和7年)の優勝馬という輝かしい実績を残しているわけだから、ここでも、ミラの血が大きなマイナス要因となったとは考えられない。つまり、ミラの血は欠陥になったのではなく、クロスする血が存在していたと考えなければ、この馬のダービー制覇は、血統からは説明できないことになる。
以上のことから、ヒカルイマイの母系の5代目の空白部分第二スプーネーとミラの6~9代には、少なくとも欠陥にはならない程度に、サラブレッドの血が存在していると見て、まず間違いはないはずである。
となると、次に問題となるのは、そこに存在してクロスとなった血は何かということになるわけだが、前述した仮定からすれば、父シプリアニ内に含まれているいずれかの血で、またミラの生まれた1895年以前に存在した馬と考えればよい。シプリアニ内の6代以内に存在する血は、いずれも生年が1900年以降だから、当然BlandfordやGainsboroughがクロスになることはない。そのために、ここまでのヒカルイマイの血統表上に現れたクロスや影響度を変えるようなことにはまずならないわけである。
また、1895年以前は、それほどの血統の広がりはまだないわけだから、おおよそ血の範囲も限定されてくる。そうして絞り込んでいくと、当時の血統上の根幹とされていたBend Or、Galopin、Hermit、Hampton、Isonomyのあたりと想定しておけば十分だろう。そして、シプリアニの5代目に並ぶ馬たちの世代と、ミラの世代からして、これらの血が位置的にも7~8代に配置されていることが推測できる。以上、ヒカルイマイの血統中の空白部分に関する考察である。
これを踏まえ、前述した血統構成の解説を総合してヒカルイマイの血統を8項目評価すると以下のようになる。
①=□、②=□、③=◎、④=□、⑤=△、⑥=○、⑦=□、⑧=○
総合評価=3B級、距離適性=9~11F
④の弱点・欠陥については、想定した血が配置されているとして□と判断した。決して上級馬の内容ではないが、少ないクロス馬と強固な連動態勢、そしてThe TetrarchとPolymelusのスピードを生かしたことは、当時としては大きな武器であり、個性のある馬であったことが十分に読み取れる。なぜスピードが大きな武器になったかといえば、日本の競馬がヨーロッパのスタミナ系を主流に推移していたことから、1970年代頃までは、全体としてスピード要素が少なかったことはご承知の通り。
この年も例外ではなく、他の有力馬と称されたライバルたちの血統構成も、そうしたタイプの馬が多かった。この中にあって、ヒカルイマイがいち早くスピードを取り入れたが、レースにも現れていたのである。皐月賞、ダービーとも、派手な直線一気の差し切り勝ち。とくにダービーでは、当時「1コーナーのダービーポジションは10番手以内で」というそれまでの鉄則を無視して、28頭の最後尾、最後の直線だけで20頭近くをゴボウ抜きするといった芸当は、まさにスピードという血統的根拠なしには語ることはできないだろう。
ここで、参考までに、当時ダービーでの有力馬としてあげられていた馬たちのプロフィールを紹介するので(分析表も別掲)、参考にしていただきたい。
■ダコタ(1B)
直前の4歳Sを制して4連勝、その勢いと、ヒカルイマイのサラ系というイメージが嫌われ、この馬が1番人気に。Phalarisのスピードは生きているものの、バランスは悪く、結果も17着と惨敗。
■フィドール(2B)
TeddyとGainsboroughのスタミナには見どころがあるが、いかにもスピード不足。健闘するも結果は3着。
■ベルワイド(3B)
結果は6着だったが、後に5歳時に春の天皇賞を制す。
■バンライ(3B)
皐月賞は2着。主導がわかりにくく、迫力はないが、まとまりはよい。ダービーは10着。
■ハーバーローヤル(3B)
ダービーは人気薄(20番人気)で2着に入り、大穴(馬連5,740円)の立役者。けっしてあか抜けした配合ではないが、Gainsboroughのスタミナを核に、Lady Josephineのスピードを生かした点は、ヒカルイマイと同様に、当時としては大きな武器であった。後に京都新聞杯、ダイヤモンドSなどの重賞でも2着と善戦。
ほかにも、ヤシマライデン(父セダン)、オンワードガイ(父オンワードゼア)、同年秋の菊花賞馬になったニホンピロムーテー(父ムーティエ)など、しっかりした配合馬がダービーに参戦していたが、いずれもスピード面で不安を持つ配合内容の馬たちで、傑出した血統構成馬がいなかったことも、ヒカルイマイには有利な年だったのかもしれない。
ヒカルイマイは、ダービー制覇の後、夏に体調を崩し、秋の京都新聞杯を9着と惨敗。三冠最後の菊花賞は出走しないまま競走生活を終えて、種牡馬になった。しかし、サラ系という血統上の理由から、種付頭数も少なく、これといった実績は残すことができなかった。
いま、こうして理論上からヒカルイマイの血統を診断すると、かりに夏を無事に過ごせたとしても、菊花賞制覇は難しかったように思う。また、種牡馬としても、サラ系というハンデを抜きにしても、他の血の状態からして、適性を欠いていたというのが、理論から見た結論である。ちなみに、菊花賞は、ダービーで8着に敗れたニホンピロムーテーが、夏の間に力をつけ、福永洋一騎手の好判断もあって、栄冠を手中におさめることになった(以下血統表参照)。