久米裕選定 日本の百名馬

ヒカルタカイ

父:リンボー 母:ホマレタカイ 母の父:ハクリョウ
1964年生/牡/IK評価:1A級
主な勝ち鞍:全日本3歳優駿、東京ダービー、羽田杯

▸ 分析表

1967年(昭和42年)の中央競馬では、4歳(旧表記)クラシック戦線は、皐月賞がリュウズキ(父カバーラップ二世)、ダービーはアサデンコウ(父シーフュリュー)、そして菊花賞はニットエイト(父ガーサント)と、3頭の馬が三冠を分け合っていた。かたや、公営南関東では、ヒカルタカイ(父リンボー)が、東京ダービーで、2着馬に12馬身差をつけて圧勝した後、羽田杯、そして東京王冠賞も制して、初の公営三冠馬となって話題を集めていた。しかし、その父リンボーは、ヒカルタカイの活躍を見ることなく、同年3月、供用先の豊洋牧場で死亡していた。

ヒカルタカイは、もはや公営に敵なしということで、翌1968年、活躍の場を中央競馬に求めて転厩する。中央入りしてからの3戦(1,600m~2,000m)は、いずれも2着に甘んじたが、距離が3,200mに延びた本番の天皇賞・春では、公営時代に見せた爆発的な脚を期待されて、1蕃人気に推された。そして、その期待に見事に応え、2着馬のタイヨウに、15馬身とも16馬身ともいわれた大差をつけて優勝。実力を遺憾なく発揮して、その強さを競馬ファンに強烈にアピールした。

また、この結果は、公営馬といえども、強い馬であれば、中央でも堂々と渡り合えること証明したといえる。あるいはそれ以上に、公営にも未知の可能性を秘めた馬が存在することを印象づけた。ヒカルタカイは、続く宝塚記念も圧勝。それも、2分14秒7というレコードタイムのおまけ付きで、この馬の存在が確立された(鞍上は野平祐二騎手)。

この馬が活躍した1968年といえば、世の中では小笠原諸島の返還や、静岡寸又峡の金嬉老事件、東京府中の3億円事件など、大きな出来事が連続した年でもある。かたや、「昭和元禄」とも呼ばれた時代でもあり、馬券の売上も上昇カーブの起点となった。5年後の1973年には、同じく公営南関東出身のハイセイコーが、中央で大活躍し、「怪物クン」の異名とともに、競馬の大衆化に大きな役割を演じている。その命名の根拠、あるいは大衆化の伏線として、このヒカルタカイの爆発的な走りや存在感が、影響を与えているといえるのではないだろうか。

《競走成績》
3~6歳の競走期間のうち、3~5歳の1戦のみが公営で、20戦12勝、2着5回、3着3回。主な勝ち鞍は、全日本3歳優駿(ダ1600m)、東京ダービー(ダ2400m)、羽田杯(ダ2000m)、東京王冠賞(ダ2400m)など。
中央では、11戦3勝で、主な勝ち鞍は、天皇賞・春(芝3200m)、宝塚記念(芝2200m)。

《種牡馬成績》
1970年から種牡馬として供用されたが、これといった活躍馬は出せずに終わっている。

父リンボーは、アメリカ産で、1952年(昭和27年)に競走馬として、日本に輸入されている。競走成績は、4~6歳時に走り、23戦9勝。いまでいうところの重賞勝ちはないが、マイル前後の距離で、オープン競走やハンデ戦の勝ち星をあげていた。種牡馬としては、中央ではコウライオー(8勝、金杯、日経新春杯など)、キヨズキ(9勝、東京牝馬特別)、ワカノキング(5勝、京阪杯)などを出したが、いわゆるクラシック・ホースと呼ばれるような産駒はなく、メジャーな実績を残すことはできなかった。

しかし、公営では、ヒカルタカイの他に、タケデンボー(平和賞、ダイオライト記念)、コクユウ(大井杯、平和賞、金杯)など、数多くのステークス・ウィナーを出し、チャイナロックとともに「2大種牡馬」といっていいほどの実績を残している。

最初は、1954年に青森で種牡馬となったが、1959年に北海道に渡り、ヒカルタカイは1964年、吉田勇氏の生産。

当時の日本は、ヒンドスタン、ソロナウェー、ライジングフレームといった、欧州の血を主体とした種牡馬が、リーディングの上位を占めていた。そうした時代にあって、父がMan o’War系の血を受け継ぐ米三冠馬のWar Admiralというリンボーは、まさに異端の存在であった。そして、母方も、Broomstick-Whisk Broomを受け継ぐBoojum(2勝)ということで、現代でも見られないほど、アメリカ色の強い種牡馬であった。 

リンボー自身の血統構成は、Peter Panの父であるDomino(アメリカ19世紀の快速馬)の産駒Pink Dominoの4×6の系列ぐるみのクロスを主導に、Ben Brush(ケンタッキー・ダービー馬)の4×5・6・7を前面に配し、Sweep(ベルモントS馬)を強調した形態。「種牡馬の王様」といわれたStockwellを中核として、全体がまとめれている。母の母内にThe Tetrarchが含まれていたり、Persimmon-St.Simonといった欧州系のスタミナの核を備えているといった特徴はあったが、それらはあまり有効には働かず、血統構成の評価としては二流の内容であった。

リンボーの血統構成を8項目に照らすと、以下のような評価になる。
 ①=□、②=□、③=□、④=○、⑤=□、⑥=□、⑦=□、⑧=□
 総合評価=2B級 距離適性=8~9F

▸ リンボー分析表

母ホマレタカイは、3歳時に中央で走り7戦0勝。その父ハクリョウは、菊花賞、天皇賞を制し、16勝をあげた名馬で、種牡馬としても、シーザー(宝塚記念)やヤマノオー(皐月賞)などを出して成功している。ホマレタカイ自身は、勝ち星こそないが、血統構成上だけでいえば、St.Simon-Galopinを土台構造にして、Stockwellも要所で押さえたしっかりとした配合で、0勝で終わるような形態ではなかったことが推測できる。おそらく鍛練によるスピードの引き出しが不十分なまま競走生活を終え、繁殖入りしたのだろう。そうした父母の間に生まれたのが、ヒカルタカイである。

ヒカルタカイの5代以内のクロスは、まずSwynford(=Harry of Hereford)の5×5。この血は、途中John o’Gaunt が断絶しいるが、Isinglass、Isonomyはしっかりとクロスし、スタミナ勢力として、能力参加を果たしていることは確か。ただし、主導としては、Rock Sandが、5×6・6の系列ぐるみを形成していて、このほうが強い影響力を示し、全体をリードしている。このSwynfordとRock Sandは、St.Simon、Hermitを近い世代で共有し、連動できることは、たいへん都合がよい。

次いで、前面でクロスしている血を検証すると、Whisk Broomの5×6が、Broomstick-Ben Brushと系列ぐるみを形成。父の父War Admiralの中で、Ben Brushと結びついているが、Ben Brushはアメリカダービーを制しているように、米系のスピード要素を備えている。ヒカルタカイの公営ダートでのスピードは、この血によると見て間違いないだろう。

また、この時代に、これほどまでに米系の血を再現できたことはたいへん珍しく、それには母方祖母内クモハタの母星旗を忘れてはならない。ちなみに、Whisk Broomは、Galopinを含み、主導と結合を果たし、スピード勢力として能力形成に参加している。 その他の6代目の血を検証すると、Bend OrがStockwell、PersimmonがSt.Simon、CinderellaがHermitといった具合に、すべて主導のRock Sandに直結している。このRock Sandは英三冠馬。Swynfordもセントレジャー馬と、一時代を築いた名馬であり、ヒカルタカイの長距離における無類の強さは、これらの血が再現され、そして開花した結果と見て間違いない。

以上を8項目に照らすと、以下のようになる。
 ①=○、②=○、③=◎、④=□、⑤=□、⑥=○、⑦=○、⑧=□
 総合評価=1A級 距離適性=10~15F

ヒカルタカイは、宝塚記念をレコードタイムで勝っているが、現代の馬との比較でいえば、スタミナに比べて、これぞという芝対応のスピード勢力が弱い。天皇賞におおける圧勝劇は、その時の馬場状態(重)も味方していたのかもしれない。

ヒカルタカイは、その後種牡馬になったが、前述したように、実績を残すことはできなかった。その理由としては、これだけ米系の血の比率が高い種牡馬であると、当時のように欧州主体の繁殖牝馬が多い時代では、ランダムに配合すると、それらの血を活用することはできず、結果として不遇に終わったのだろうと、容易に想像できる。ヒカルタカイから優駿をつくる手段としては、完全異系交配の形態にして、リンボーやハクリョウの影響を弱めることも一つの方法と思われる。しかし、ハクリョウ内のプリメロ-Blandford、あるいは母の母内のクモハタ-トウルヌソルの位置からすると、異系をめざすことは、当時としては難しかったように思う。

そこで、リンボーが母の父(BMS)となった形態で活躍した馬の中から、アイフルという馬の血統構成を紹介しておきたい。

アイフルは、1971年生まれ、ハイセイコーの1年後輩で、キタノカチドキ(父テスコボーイ、皐月賞、菊花賞)、コーネルランサー(父セダン、ダービー)らと同期に当たる。4歳クラシック戦線には縁がなく、主にマイル戦を使われ、いつも追い込んで届かず3着というレースを繰り返す条件馬であった。それが、6歳になって金杯を制したことを契機に変身し、距離延長とともにめきめきと頭角を現してきた。秋の天皇賞では、それまでの菅原泰夫騎手(現調教師)から、嶋田功騎手(同)に乗り替わり、クラシック戦線でも活躍してきた馬たち、すなわちハーバーヤング、ロングホーク、キクノオー、イシノアラシなどを一蹴し、雑草のごとく、遅咲きの花を咲かせたのである。戦績は、3~7歳時に43戦して12勝。父セダン、母グリンロッチで、北海道静内産。

まず、もっとも影響力の強い父の父Prince Bio内で、6代目の位置にあって影響度数字に換算されるクロス馬を検証すると、Persimmon(英ダービー、英セントレジャー)、Bayardo(英セントレジャー)、Sans Souci Ⅱ(パリ大賞典)、William the Third(アスコット金杯)がいることがわかる。これらはいずれも、St.Simon、Galopinを共有することで、強固な結合を果たし、スタミナ勢力として能力参加している。スピードは、The Tetrarch(7戦全勝のスピード馬)で、これはBend Orを通じてSans Souci Ⅱに結合している。

その他、母内でSpearmint(英ダービー、パリ大賞典)がヒンドスタン内6代目でクロスし、Mintingを通じて、父の母内6代目のGorgosと結合し、間接的に主導と連動している。こうして、明らかにスタミナ優位で、影響度数字が⑤①①①と異系交配の見事なバランスを示す血統構成馬であったことが確認できる。

アイフルの8項目評価は以下のようになる。
 ①=○、②=○、③=○、④=○、⑤=◎、⑥=○、⑦=○、⑧=○
 総合評価=2A級 距離適性=10~15F

▸ アイフル分析表

完全なステイヤー形態であり、5歳までオープン入りを果たせなかったのは、こうしたスタミナ優位の血が、3~4歳時にはまだ未開花だったことによると推測できる。また、アイフルは、天皇賞の後に、有馬記念でトウショウボーイ、テンポイントに敗れているが、これは、中山の2,500mという特殊なコースでは、もてるスタミナのよさを十分に発揮することができなかったためと考えられる。もしも、世界レベルの基準で比較すれば、敗れた相手の両馬よりも、アイフルのほうが、すぐれた血統構成と位置づけるべきで、まさに隠れた名馬ということができるだろう。

ヒカルタカイには、半妹のタカイホーマ(父スパニッシュエクスプレス)という、オークス2着などの活躍をした牝馬がいたが、秋のエリザベス女王杯では、4コーナー坂下で骨折し、その骨が胸に刺さるという、壮絶な最期を遂げている。しかし、BMSとしては、ダイアナソロン(父パーソロン)という牝馬を送り出し、そのダイアナソロンが、父トウショウボーイとの間で、クエストフォベスト(1990年生)を出していて、当然ながらその中にもヒカルタカイの名を見ることができる。このクエストフォベストは、4戦2勝で種牡馬入りし、その産駒は1999年にデビューしているが、いまのところ、これといった活躍馬は出ていない。

クエストフォベストの8項目評価は、以下の通り。
 ①=□、②=□、③=□、④=○、⑤=□、⑥=□、⑦=□、⑧=○
 総合評価=3B級 距離適性=8~10F

▸ クエストフォベスト分析表

 

 

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